ひつじのお家

自分用の日記みたいなものです

自分へ

 

声が大きい方が

数が多い方が

 

「正しい」と思われがちなんだけれど

 

たとえあなたが

心の中で秘めた誰にも明かさない思いがあったとしても

たとえあなたしか

そう思うひとがいなかったとしても

 

あなたが「正しい」と思う方が正しい

 

誰にも伝えられなくて

悔しくても

悲しくても

 

その思いは貫いてほしい

自分の心のままに生きてほしい

それが人生だと思うから

 

どんなに大きく見えたとしても

どんなに数が多く見えたとしても

自分じゃないだれかに左右されて自分の考えを曲げないでね

 

自分より

自分にとって病院とは

世間からしたら大したことの無い病気だけれど

私からするとずっと大きな存在だった

不整脈

 

中学に入ってからずっと心臓の鼓動がおかしくなる発作に襲われて

病院に行っても異常が無いと言われ続けてきた

 

でも私はこれは絶対に異常だと確信していたし

原因不明の異常が自分の中にあることが恐怖で恐怖で仕方が無かった

 

しかも心臓って、体の中で一番重要な部分だし

自分はいつ心臓が止まって死んでもおかしくないのではないかと

想像しては、恐怖で怯えていた

 

怖くて、怖くて

ご飯が喉を通らないこともあったし

自分の部屋でひたすら泣いていたこともあった

 

結局、3年ほど前にその原因が不整脈の一種であることが分かって

今すぐ治療が必要なものではないと言われたので

必要に迫られるまで放置することに決めたけれど

 

それでも尚

心のどこかに恐怖はある

いつかこの不整脈が危険なものに発展したらどうしよう

 

だから、病気で恐怖を感じている人の気持ちはすごく分かるし

そんな人に寄り添って少しでも支えられたら、という気持ちは大きい

 

将来、病院で働くつもりはないけれど

製薬メーカーだって目的は同じで

病気の人を助けること

 

病気の人を助けたい

この気持ちを

ずっと忘れずに持ち続けて働きたい

 

2019/1/1

今までで一番気持ちの沈んだお正月だったかもしれない。

 

1人で近所の神社に行ってきた。

道行く大半が家族連れ、たまに1人で歩いている人もいる。

家族連れはみんな素敵な笑顔で幸せそうで、涙が出てくるし

1人で歩いている人は、なんだが寂しげで涙が出てくる。

 

幸せな気持ちになれない。

どうすれば幸せになれるのか。

 

私は頭の中で、就活の面接会場にいた。

私一人、椅子の前に立っていて、3人の男の面接官が私の方を見ている。

私は何も聞かれていないのに突然涙が出てくる。

私はおもむろに語り出す。

「私は幸せになりたいです。でも、幸せは人によって様々だと思います。

家族と平穏に暮らすことが幸せかもしれないし、自分が一生懸命働いて社会の役に立つことが幸せかもしれない。自分自身が成長していくことが幸せかもしれない。」

 

このあたりで私の頭の中のイメージは消えた。

 

幸せになりたいなあ。

基本的なことだけれど一番たいせつなこと。

京都タワー

さっき、テレビで京都タワーの誕生秘話を見て感動したので、文章に残しておこうと思う。

 

私は生まれも育ちも京都だし、京都タワーは当たり前の存在としてある。

 

しかし、当然のことながら過去には京都タワーが存在していなかった時代もあり

様々な人が膨大な時間をかけて、築き上げたからこそ

今、存在しているわけである。

 

私は京都にいるから盲点だったが、確かに、言われてみれば不思議である。

歴史的建造物も多く存在し、建物の色や高さに厳しく制限がかかっている京都。

なぜその土地にあんなにインパクトのあるタワーの建設が許されたのか。

 

京都タワーの設計者は山田守。

当初、京都駅前にタワーを建設する予定はなく、ビルを造る予定だったそうだ。

しかし、当時は日本全国でタワーの建設ラッシュ。東京タワーや名古屋のテレビ塔なと、多くの鉄骨のタワーが建設された。

そこで、京都にもタワーを建設しようということになり、すでにビルが建設されていたにも関わらず、その上にタワーを建てようということになった。

山田は流行りの鉄骨のタワーにとらわれず、京都にしかない新しい美を築き上げることを目標に設計に取り組んだ。

その中で大切にしていたことが、「自然」である。

四角い箱に四角い窓を開けたような、人工的な建築物ではなく、緩やかな曲線を描くような、自然の中にある形を建物に取り入れようとした。

その中で生まれたのが現在の曲線を描いたタワーなのである。

京都の町を照らす、灯台をイメージして設計されたそうだ。

しかし、設計が決まり、建築が進むと、世間からの批判が殺到した。

京都市民は去ることながら、全国から、また、川端康成司馬遼太郎などの著名人からも京都の歴史的な街並みを汚すタワーだとして建設中止の要望が相次いだ。

最終的に、タワーを目立たないシルバーに塗るように指示された。

しかし山田はそれにめげずに反発した。

シルバーのタワーでは京都の新しい美は表現できない。京都の駅前に美しくもない建造物を建ててよいのか。

山田はタワーの色の検討に膨大な時間をかけた。赤や緑、青など様々な色を一部分に塗っては遠くから観察し、どのように見えるかを確認した。

当時、東海道新幹線が開通。青空の下をミルキーホワイトの車両が駆け抜けていく様をみて、山田はこの色こそが新しい京都を作っていくうえで欠かせない色だと確信した。

山田の強い信念から、説得に成功し、無事現在の京都タワーが完成した。

 

しかし当時は京都タワーに対する批判が多く、山田は京都タワーが世間的に評価される前に亡くなってしまう。

それでも、死ぬ間際、「人生の中で一番良かった建設は、京都タワーだ」と言い切ったそうだ。

 

私はその強い生き方に感銘を受けた。

何でも今までの常識を覆すこと、革新的なことには批判がつきものだと思う。

しかしその批判に動じることなく、自分が「美しい」と思うものは「美しい」と、自分の信念を貫き通すその強さ、そういう強さこそが次の時代を切り開いていくのだろう。

 

京都タワーにはまだこだわりがあり、ビルの高さは規制のぎりぎりの高さだったのだが、その上にさらに30メートルほどの台座があり、その上にタワーが立っている。

当時は町屋ばっかりだった京都だが、現在ではビルが立ち並ぶ京都市街。

そんな中、ビルから台座がひょっこり浮き出ており、その上に京都タワーがそびえたっているように見える。

これこそ山田が描いていた未来の京都なのだ。

山田は将来、京都にもビルが立ち並ぶことを予想し、そんなビルの中でも京都タワーがビルのてっぺんの第2の地平線から浮かび上がって見えるように設計したのである。

 

今では京都タワーは京都の町に完全に馴染み、町にとっても人にとっても欠かせない存在となっている。

しかし、そんな京都タワーにも歴史の批判を受けていた時代があるのである。

 

私は自分の町を照らす京都タワーを誇りに感じるし、これからも京都の大切な歴史のひとつとして、人々から愛され続けることを願ってやまない。

"羨ましい"という気持ち

あの人は良いなあ。

アルバイトをしなくても生活ができて。

家庭の環境が良くて。

 

どうしても思ってしまう時がある。

でも、思ったからと言って状況が変わるわけでもないし、今与えられた環境の中で自分がどう行動するかが全てだし

人を羨む暇があれば、その気持ちの分負けないように努力して、自分で欲しいものを勝ち取っていけば良い。

 

毎度毎度自分にそう言い聞かせる。

自分は弱いから、自分の至らなさを周りの環境のせいにして逃げようとしてしまう。

そんな自分を必死で押さえつけて、目の前のことを大事に取り組んで行きたい。

愛知県へ

昨日から1泊で愛知県へ行ってきた。

理由は2つあって、

1つ目は1人旅をしてリラックスしたかったから。

2つ目は自分が幼少期過ごした岡崎市を訪問したいという衝動に駆られたから。

 

私はまだ自分の父親と向き合うことが出来ていない。

確かにあの人が私の父親であるという事実に変わりはないだろうけれど、

だからと言って、今私があの人に会って、あの人が私に対して父親として父親らしい接し方をしてくれるのかと考えると、自信がない。

あの人には今別の大事にすべき家庭があるから、私は所詮よそ者に過ぎないような気がする。

例えその場ではそれらしく振舞ってくれたとしても、もしその態度の裏にある複雑な感情に気付いてしまったらどうしよう、といった不安から、会う勇気が出ない。

でもすごく興味はある。

私は、父親と「子供」と「大人」という関係においてしか接したことがない。

「人」と「人」として接したことがないし喋ったことがない。

正直父親がどんな人物なのか分からないから、知りたいという気持ちもある。

 

そんな興味から、父親に会わなくても、幼少期家族で過ごしていた土地に訪れてみたいという気持ちになった。

幼いころの記憶なので、ほとんど無いに等しいのだが、断片的な記憶は残っていた。

社宅の階段のにおい、社宅の裏の砂場、小さな畑、裏には階段がついていて、そこから保育園に通っていた気がする。

ただ、問題は岡崎市といえどもそれなりに広くて、住所も名前も分からないあいまいな記憶の中の場所にどうやって行くか、ということだった。

そこで、まずは通っていた保育園へ行くことにした。

保育園の名前だけは覚えていて、検索すると出てきた。

名古屋市から約1時間。岡崎市に入っても特に記憶に残っているような風景には出くわさず、試しに岡崎公園にも行ってみたのだが、やはり何の覚えもなかった。

ただ、通り過ぎる学校や、道を行く高校生の姿を見ると、もし私が京都に来ることなく岡崎市に住み続けていたとしたら、こんな学校に通って、こんな高校生になって、この街の中で生きていたのだろうか、という想像が頭の中で自然と膨らんだ。

 

ついに大きな道から細い住宅街に入り、通っていた保育園の前までたどり着いた。

最初全体を見たときは、何の記憶もないと感じたのだけれど、しっかりとした玄関の大きな門、広い運動場、商業施設のような小さなお城のような校舎を眺めたとき、

記憶とまったく一致するわけではないけれど、「ああ、ここだ」と、古いあいまいになっている記憶の中の景色が目の前の光景で少しずつ補われていくような感覚になった。

しかし、その場に長くとどまろうという気は起きなくて、車の車窓から眺めるだけでそのまま通過した。

すると今度はその道沿いに見覚えのある社宅が。

幼少期住んでいたところはここだ、と見た瞬間確信した。

中の駐車場から外の道路に出るまでが少し坂になっているところや、横に古びた自転車置き場があること、周りが背の高い草でおおわれていること全てが記憶と一致した。

降りて見に行こうかとも思ったけれど、道が狭く車を置くところもないし、京都ナンバーの車を置き去りにしておくことに何かしらの恐れを感じた。(万が一知っている人に見つかったらどうしよう、とか)

結局ここも車で通り過ぎるだけで終わった。

そのあと、イオンモール岡崎店が目に入ったのだがこれも記憶そのままで驚いた。

昔は「ジャスコ」だったのだが、名前が変わっただけで外装は何も変化していない。

建物の上に大きなピンクの看板が付いていて、前に大きな駐車場がある。

でも、これもただ通過するだけにとどめた。

 

今回の旅はこの辺りで満足し、切り上げることにした。

幼少期の頃の思い出の場所を訪れることで、やはりいつか自分は父親という存在と向き合う必要がある、と強く感じた。

いろいろあったけれど、やはり父親がいなければ自分は存在していないし、

小さいころはいつも一緒に遊んでくれて、いろんなところに連れて行ってくれて、お父さんが帰ってくる日が大好きだったし、そのことに感謝を伝える日が来なければならないと感じている。まだ気持ちが整っていないから、もっと先になるだろうけれど。

今までもう一生会わないつもりでいたけれど、このまま一度も会わず、次会うのがお葬式なんてことになったら、一生後悔するし心残りになる気がするから。

今はまだ学生で勉強の真っただ中にいて、中途半端な状態だけど、就職して安定して、自分で生計を立てられるようになったら、挨拶をしに行かなきゃな、と思えた訪問だった。

人生とは

人生とは何か。
永遠の課題だと思う。私たち人間に課せられた一番の課題だと思う。
もちろん、この問いを突き詰めたからって1つの正しい答えに辿り着けるわけではないだろうし、考えるだけ無駄だ、という意見もあるかもしれない。
もちろん答えは1つじゃないし、人によっても変わってくると思うけれど、自分の中で、一度きりの人生をどんな風に生きたいか、というある程度の方向性のようなものは決めながら進みたいと思っている。
ただ何も考えることなく車を走らせ、交差点が見えて来たらその都度どの方向に行くかを考える、そして気づいたら年を取っている。
そんな人生は嫌だ。
今まで私は井の中の蛙だった。今でもそうだけれど今までは極端にそうだった。
人生とは、勉強ができて、いい学校に行き、一流と呼ばれる職業に就くことだと思っていた。また、自分にはその能力があると思っていた。
だから大学受験に失敗した時、もう人生が終わってしまったような絶望感に苛まれたし、第一志望の大学に行けない今となっては人生の負け組も同然だと思っていた。
ただ、その考えは自分の中に深く根付いていて、色々な世界を知った今でもそう思っている節がある。自分は負け組の世界の人間だ、と。
全く志望したことの無かった大学に通い、しかもそこで色々あり留年して、1年間という時間が与えられた。
私はそのうちの半年をニュージーランドで留学して暮らし、残りの半分を派遣社員としてホテルで働いて暮らした。
ニュージーランドで様々な国の、文化の、年齢の、立場の、職業の人と出会った。
その中でとりわけ日本人から影響を受けた。
私は初め、彼らに偏見を持っていた。なぜか。
私は一流の大学に進学し、一流の職業に就き、一流の生活をしている人のみが人生における正しい道で、それこそが生きる価値だと思っていたからだ。
大げさな言い方だけれど、それ以外の人はみんな道から外れた異端者だと思っていた。
会社を途中で辞めて海外に来た人、専門学校生、ニュージーランドの大学に入りたくて来た人……いろんな人がいた。
私は半年かけて彼らと接するうちに、彼らの中に立派な志があることを知った。
それは私が当たり前だと思ってきた価値観をぶち壊すものだった。
確かにいい大学を出、いい社会的地位に就くことも一つの成功といえるだろうけれど、それが人生のすべてではない。
それに、例えいい大学を出ていい会社に入れたとして、確かに周囲には尊敬されるだろうけれど、
自分にとって果たしてそれが本当に生きていて楽しいのかと言われれば首をかしげる
とても狭い世界に閉じこもってい生きているような気がするのだ。
そんなことよりも、名は知られていないけれどニュージーランドの大学に通って4年間、たっぷりの自然の中で自由にのびのびと過ごし、
色々な国の人々と交流したほうが楽しいのではないか、と思う。
日本の一流企業より給料は少なくても、ニュージーランドで働き口を見つけ、ライフワークバランスの取れたいい環境の中でゆったり過ごした方が
楽しいのではないか、と。

ただ、私にはもう手遅れなのである。
すでに薬科大学の3年生だし、ここまで親に払ってもらったお金のことや費やした年月のことを考えるとこの道を引き返すことは不可能なのだ。
薬科大学に入ると決めた時、第一志望が無理だったから、その次に安定職を得られそうな大学に行くという狭すぎる観点でしか物事を判断出来ていなかったし、
自分の一度きりの人生を楽しむ、というよりも周りの人たちに羨ましがられる、という観点でしか考えていなかった。
もしあの時海外に行くという選択肢を知っていたら、一番にその道を選んでいたかもしれない。
もっと突き詰めるなら、高校の時点で、ニュージーランドの高校に行っておくべきだったかもしれない。
ただ、私は無知過ぎたのだ。
新しい世界を知ったら、どんどん可能性が広がり、今の状態が嫌になって葛藤が生まれる。
きっと今でもすごく無知で、まだまだ私の知らない新しい世界があるに違いない。
それを知らずしてこの先の人生を今の狭い視野で決めていくことはすごくもったいないような気がする。

ああ、なんか結局何が言いたいのか分からなくなった。
疲れたし眠い。
もう寝よう。まだ自分の言いたいことも結論も書けてないけれど、
何が言いたいのか分からなくなってしまったし、親に反発しかできなくて自分のことめっちゃ悪く言われて、
なんかカッと来て文章に起こそうとし単だけど前置き長すぎたしここまで書いているうちにどうでもよくなってしまった。
またなんかあったら書く。おやすみなさい。