ひつじのお家

自分用の日記みたいなものです

京都タワー

さっき、テレビで京都タワーの誕生秘話を見て感動したので、文章に残しておこうと思う。

 

私は生まれも育ちも京都だし、京都タワーは当たり前の存在としてある。

 

しかし、当然のことながら過去には京都タワーが存在していなかった時代もあり

様々な人が膨大な時間をかけて、築き上げたからこそ

今、存在しているわけである。

 

私は京都にいるから盲点だったが、確かに、言われてみれば不思議である。

歴史的建造物も多く存在し、建物の色や高さに厳しく制限がかかっている京都。

なぜその土地にあんなにインパクトのあるタワーの建設が許されたのか。

 

京都タワーの設計者は山田守。

当初、京都駅前にタワーを建設する予定はなく、ビルを造る予定だったそうだ。

しかし、当時は日本全国でタワーの建設ラッシュ。東京タワーや名古屋のテレビ塔なと、多くの鉄骨のタワーが建設された。

そこで、京都にもタワーを建設しようということになり、すでにビルが建設されていたにも関わらず、その上にタワーを建てようということになった。

山田は流行りの鉄骨のタワーにとらわれず、京都にしかない新しい美を築き上げることを目標に設計に取り組んだ。

その中で大切にしていたことが、「自然」である。

四角い箱に四角い窓を開けたような、人工的な建築物ではなく、緩やかな曲線を描くような、自然の中にある形を建物に取り入れようとした。

その中で生まれたのが現在の曲線を描いたタワーなのである。

京都の町を照らす、灯台をイメージして設計されたそうだ。

しかし、設計が決まり、建築が進むと、世間からの批判が殺到した。

京都市民は去ることながら、全国から、また、川端康成司馬遼太郎などの著名人からも京都の歴史的な街並みを汚すタワーだとして建設中止の要望が相次いだ。

最終的に、タワーを目立たないシルバーに塗るように指示された。

しかし山田はそれにめげずに反発した。

シルバーのタワーでは京都の新しい美は表現できない。京都の駅前に美しくもない建造物を建ててよいのか。

山田はタワーの色の検討に膨大な時間をかけた。赤や緑、青など様々な色を一部分に塗っては遠くから観察し、どのように見えるかを確認した。

当時、東海道新幹線が開通。青空の下をミルキーホワイトの車両が駆け抜けていく様をみて、山田はこの色こそが新しい京都を作っていくうえで欠かせない色だと確信した。

山田の強い信念から、説得に成功し、無事現在の京都タワーが完成した。

 

しかし当時は京都タワーに対する批判が多く、山田は京都タワーが世間的に評価される前に亡くなってしまう。

それでも、死ぬ間際、「人生の中で一番良かった建設は、京都タワーだ」と言い切ったそうだ。

 

私はその強い生き方に感銘を受けた。

何でも今までの常識を覆すこと、革新的なことには批判がつきものだと思う。

しかしその批判に動じることなく、自分が「美しい」と思うものは「美しい」と、自分の信念を貫き通すその強さ、そういう強さこそが次の時代を切り開いていくのだろう。

 

京都タワーにはまだこだわりがあり、ビルの高さは規制のぎりぎりの高さだったのだが、その上にさらに30メートルほどの台座があり、その上にタワーが立っている。

当時は町屋ばっかりだった京都だが、現在ではビルが立ち並ぶ京都市街。

そんな中、ビルから台座がひょっこり浮き出ており、その上に京都タワーがそびえたっているように見える。

これこそ山田が描いていた未来の京都なのだ。

山田は将来、京都にもビルが立ち並ぶことを予想し、そんなビルの中でも京都タワーがビルのてっぺんの第2の地平線から浮かび上がって見えるように設計したのである。

 

今では京都タワーは京都の町に完全に馴染み、町にとっても人にとっても欠かせない存在となっている。

しかし、そんな京都タワーにも歴史の批判を受けていた時代があるのである。

 

私は自分の町を照らす京都タワーを誇りに感じるし、これからも京都の大切な歴史のひとつとして、人々から愛され続けることを願ってやまない。